ココ・シャネルといえば、シャネルを創業した稀代のファッションデザイナーです。しかし、あえてタイトルを稀代の起業家としているのは、ココ・シャネルがシャネルを通して作り上げたのがモードだけでなく、未来を反映したファッションのスタイルそのものだからです。
ジャージー素材のドレスも、ショルダーバッグも、先進的な女性のスタイルを作ったシャネル
例えば、ココ・シャネルが初期に発表したジャージー素材を使ったドレス。当時のパリでは、上流階級の人々はコルセットを身に着けてドレスを着込んでいました。
シャネルが発表したドレスは、伸縮性が柔らかい布地のジャージー素材を使った機能性に優れたものだったのです。
さらに、シャネルの代名詞ともいえるのが、ブランドロゴがあしらわれたチェーンのショルダーバッグ。今でこそ、ショルダーバッグはスタンダードなバッグの形ですが、これもココ・シャネルが発明したものです。
バッグを手に抱えていると、ふとした瞬間になくなってしまうかもしれない。バッグに革ひもをつけて肩にかけてみたら、思いのほか便利だった。ココ・シャネルは独創的なデザイン性とともに、ロジックと機能性も合わせてファッションを発明していました。
ココ・シャネルが機能性を求めて、女性の窮屈さを開放するような新しいファッションのスタイルを作ることができたのは、シャネルが自立した働く女性だったからです。機能性を重視するシャネルにとって、自分が欲しいとおもうファッションを発明することは、自立した女性が求めるファッションとイコールでした。
イミテーションジュエリーに、シンプルブラック。大量消費時代を見据えた先見性
シャネル本人が映ったポートレートのひとつに、何重にも連なったパールのネックレスを身に着けているものがあります。当時、ジュエリーは選ばれた特権階級のみに許されたファッションでした。
シャネルはその流れに対するアンチテーゼとして、本物の宝石にイミテーションジュエリーを混ぜてつけるスタイル提案をします。
これにより、財力がない人たちでもジュエリーを楽しむことが出来るきっかけとなりました。
さらに、シャネルが1926年、43歳のときの発表したリトルブラックドレスは、それまでモード界で敬遠されていたブラックカラーを取り入れたことで注目を浴びます。
さらに、ブラックのドレスに白い襟とカフスをつけたシンプルなデザインであったことから、大量のコピー製品が作られることになりました。
多くのデザイナーは、自身のデザインの権利を守ろうと必死でしたが、シャネルは自らのデザインのコピー商品が出回ることを受け入れます。
魅力あるつかの間の創作ではあるけれども、永遠の芸術作品ではない。モードは死ななければいけない。それもできるだけ早く。そうでなければビジネスにならない。ココ・シャネルとうい生き方より
つまり、流行というのは束の間のことで、流行がコピーされて一つのスタイルまで昇華して初めてビジネスになることを指し示しています。
これはいずれ訪れる既製服の大量消費時代を、1926年の時点で予見していた発言と言えるでしょう。
ココ・シャネルに学ぶ、生きるためのヒント
CHANEL No.5に見る、常識にとらわれない力。多方面への興味
ある時、シャネルは香水の調合しに依頼してジャスミンやイランイランなど、80種類の香りを調合します。試験管には番号が振られていて、シャネルはその名から「No5」と番号が振られたものを選びます。これが、CHANEL No.5の誕生の由来です。
CHANEL No.5の誕生以前の香水は、長ったらしい名前がついていて、装飾的な瓶に入れられていました。無機質な数字の名称と、薬瓶のようなパッケージが称賛されてたちまち人気を博します。今までの常識にとらわれず、自分の美意識に沿って新しいスタイルを提案する、シャネルが新しいスタイルを作れた理由は、その基本姿勢が常に備わっていたからです。
さらに、CHANEL No.5は、ファッション事業が不遇の時代にもシャネルの財政面を支える屋台骨となります。もし、シャネルがファッションのみに集中していたら、どうなっていたでしょうか。常に多方面に興味を持って、自分の本業とは逆側にコマを進めてみる、そのアグレッシブさも学ぶべきポイントでしょう。
不遇の時代は沈黙する。援軍は思わぬところからやってくる
1939年、シャネルが56歳のときに香水とアクセサリー部門を除いてシャネルは事業を整理します。三千人もの従業員を解雇し、以降シャネルは服を作らなくなるのです。
長い沈黙の時代が訪れますが、1954年、なんと71歳でデザイナーとして復帰するのです。シャネルが発表したコレクションはマスコミから酷評され、窮地に立たされます。しかし、そんな中でもシャネルは淡々と自分のすべき仕事をこなしていました。
その後、思わぬところから称賛の声が届きます。アメリカの雑誌たちがシンプルでエレガントだと絶賛しはじめたのです。
自分の美意識に反することに、反骨する精神
シャネルがデザイナーに復帰するきっかけとなったのは、自らが葬ったはずのコルセットや高いヒールなど、女性を束縛するファッションがパリのモード界でもてはやされていたからでした。
シャネルは自立した女性のためのシンプルで着心地世の良いスタイルを提案し、当時のモード界の常識からは外れていたために、批判されたのです。
それまでの業界の常識にそぐわない提案は、業界内の批判を浴びやすいものです。シャネルのように自分の感覚を信じることで、思わるところから援軍がやってくることがあります。
人とのつながりを大切に
モード界に不変のスタイルを打ち立てたココ・シャネル。この功績の裏側には、シャネルの交友関係があります。
恋多き女としても有名なシャネルですが、初期に出店したお店の資金は当時の恋人に出資してもらっています。
さらに、イミテーションジュエリーが生まれるきっかけとなったのは、当時交際していたロシアの亡命貴族、ディミトリ大公からプレゼントされたジュエリーがきっかけですし、シャネルNo.5誕生のきっかけとなった調香師を紹介してくれたのもディミトリ大公です。
女友達が少なったシャネルにとって、唯一の女性の親友といわれていたのがミシア・セールです。ミシアはジャン・コクトーやピカソといった一流の芸術家たちにコネクションがあり、シャネルはミシアを通して時代を代表するアーティストたちと交友関係を築きます。
こういった交友関係も、シャネルの持つ感性を育む大きな要因だったでしょう。
誰かのために尽くすからこそ、一流の人脈が生まれる
一流の芸術家たちの交流がシャネルの完成をさらに磨き上げ、ハリウッド女優たちとの交流によってシャネルのNo.5が広まることになります。シャネルが一流の文化人たちと交流することができたのは、シャネルが文化支援を行って寄付をしていたからです。
シャネルの投資家としての目は一流で、無名の芸術家を発掘してはその才能に投資していました。
この活動が、フランスの上流社会からシャネルが認知されていく要因になります。一流の人脈を築くには、自らがまず与えることなのです。
シャネルは出資や寄付は行うけれど、美術品を所有することは嫌がったといいます。純粋に才能の育成を欲していたからです。
ココ・シャネルという生き方
生涯にわたって成功を収めたように見えるココ・シャネルにも、不遇の時代がありました。70を超えたシャネルをカムバックさせた原動力は、自分が忌み嫌っていた女性を束縛するファッションが台頭していたことです。
つまり、シャネルはその生涯を自分が信じる感性と美意識に捧げ、その感覚に沿ったファッションスタイルを確立させたといえるでしょう。
シャネルが発明したファッションのスタイル、ショルダーバッグやツイードジャケットなどは、今も不変のファッションスタイルとして受け継がれています。
美意識をどう育むか、不遇の時代にどう耐え抜くか、ココ・シャネルの人生には生きるためのヒントが詰まっています。